IE9ピン留め


漢晋人の真蹟の価値とその学び方(埜本白雲)
 書を学んでその目的を達せむが為には上代の傑れた筆蹟によつて手習ひをせなければならない。然らば古人の名蹟は如何なる形によつて遺されてゐるか。これを、真蹟、碑版、法帖の三つに分類することが出来る。碑版と法帖とは暫く論ぜぬこととして、ここには真蹟に就て述べたいと思ふ。
 古人も「真蹟はただ数行を得て用筆結構を悟り得べし。」と云つてゐるやうに、書学の参考には真蹟に若くものはないやうである。尤も書学には真蹟が第一であると云つて碑学、帖学も高閣に聯ねて好い云ふわけではない。これを譬へれば真蹟が生きたピチピチ跳ねる魚とすれば、碑版や法帖は乾物(ひもの)のやうなものである。
 故に若し碑学帖学をもつて大成せむとする者も、恰度その時代の真蹟と対照し、碑版や法帖が真蹟であつた当時の状態に還元して学ばなければならない。即ち漢時代の隷書を漢碑に就て学ばうとならば、その当時に書写された漢人の隷書の真蹟を見るのである。また、王羲之、王献之の法帖を学ばむとせば晋人の真蹟を彼此対照して学ぶのである。
 昔はこの事が甚だ困難であつた。貫名海屋などは書学に極めて熱心な人であって、前述の碑版法帖は当時の真蹟に還元して学ぶべきことを始めて云ひ出したものと見られる。そしてあの時代としては熱心に真蹟を探して学んだ人と云ひ得る。今日なほ海屋の遺墨に唐人の真蹟或は我国に現存せる上代の真蹟に就て一点の微、一画の差も苟もせぬ臨書の伝はつてゐることに就てもこの事は知られる。
 けれども晋人の真蹟、漢人の真蹟に至つては夢にも及ばなかつたことである。尤も貫名を距つる千年の昔の大師や逸勢でもまた漢晋人の真蹟には接し得なかつたものであらう。然るに現在は如何であるか、漢晋人の真蹟を多数見得るのである。これ等を乾物を生魚に還元して自家薬籠中のものとするのである。即ち漢碑晋帖を漢晋人の真蹟と対照して手習ひするのである。
 恩師南溟翁はこの方法によつて殆ど成功を修めたものと云ひ得る。英国のスタイン氏が敦煌より発掘せる漢晋の簡牘を心を泌めて学び、その獲得せる手法をもつて漢碑晋帖に及ぼしたものである。而して常に云はれるには現在見得る漢晋代の真蹟を悉く蒐めて、正しき方法によつて学びなば羲之以外に於て一大家法を樹立し得べしと云つて居られたが、それには及ばすして他界せられたやうである。吾等はこれを継承すべき義務ありと堅く信ずる者である。
 ただ漢晋時代の真蹟は極めて古く、一千五百年乃至二千年を隔てた実に旧物なのである。故に真蹟とは云ふものの只今書いたもののやうに判然と見ることは出来ない。薄絹を隔てて見るが如き模糊たるものである。漢晋代の真蹟を研究するが為には面倒を厭はず心を沁めて熱心に丹念に学ばねばならない。
 私の家には書道界に誇るべき書物が一部ある。それは敦煌発掘の漢晋時代真蹟の字書である。前述の如く漢晋人の真蹟は悠久な年処を経て真蹟と雖も点画が判然と認め難い。これを究める方法は木簡の文字を一字一字切り離して字典の順序に系統立てて見ることである。さうすれば同一の文字は一緒に集めて見ることが出来る。譬へば亀の字を一例にあげる。一つの亀字は上半が判然してゐるが、下半が模糊としてゐる。他の亀字は下半が判然してゐるとせば、両字を併せて一個の完全なる亀字を得ることが出来る。吾等が手習ひに当つて手本の文字の判然せぬことは、所謂奥歯にものの挿さまつたやうで、厭やな感じである。この書を座右に置いて漢晋の簡牘を手習ひすれば決してその憾みがない。
 以上は点画を判然と見ることであるが、それ以外にこの書によつて教へられることは多々ある。「幸」字は犬羊二字の合字であることは、文字学者の間に永く云ひふるされた言葉であるが、漢晋の簡牘中の「幸」字は悉くさうなつてゐる。また説文の序に「漢興りて草書あり。」とあつて、木簡の書を見ぬうちは許慎の法螺であると思つたのである。然るに木簡中には歴々として漢人の草書が厳存してゐるのである。
 そして隷書より直に草書となつた所謂章草なるものが、立派に波□(手偏+敝)を遺して大成してゐる。この事は同一の文字を一緒に集めて見得たことによつて一層判然するのである。なほ章草中には汝帖に刻する張芝の芝白帖の真蹟と目すべきものや稀に見る羲之の章草の帖の真蹟ではないかと疑はれるものもある。そして吾人が解かむとして解き得なかつた草書の源流の幾つかを実物をもつて教へて呉れてゐる。これが気まぐれに一字特別な書き方がしてあると云ふのでは時に書き誤りもあらうと云ふので、極めて薄弱なものとなるが、幾つかを一処に蒐め得て始めて確乎たるものとなるものと思ふ。
 この書に瑞典のスウエン・ヘデイン氏が恐らく古への楼蘭の遺蹟であらう場所から発見した主に晋代の木簡が多数にある。これをも合せて字書として出版したならば書道界に益する偉大なるものがあらうと思ふ。従来の書体字引にこの書を加へて始めて完全な書体字典たり得ると思ふのである。一にも夙くこの事の成就するやう読者も共に祈つて頂きたい。

※tianpian注
木簡の文字を一字一字切り離して字典の順序に系統立てて見ること
現在、大陸、台湾、日本から各種の木簡字典が出版されている。木簡や竹簡、帛書の種類ごとに専門の字書があったりもする。恵まれた時代である。
by tianpian | 2005-01-15 15:30 | 書道第五巻第十一号
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